Sunday, September 23, 2007

石川直樹さんとの話

先週末の9月21日(金)の夜、個展開催中の写真家・石川直樹さんと、会場の銀座ニコンサロンで、「フォトセミナー」と称する公開トークを行いました。展覧会は、前にプログでも紹介した、世界の先史時代の壁画をめぐる旅の記録です。私の質問に石川さんがそれに答える形で話は進行しました。

写真を撮って現像・プリントし、写真集や展覧会を構成するという絶え間ないプロセスが、世界を理解していく上で不可欠だと石川さんは言い、カメラのない旅は考えられない、写真があって本当に良かったといま思えると言います。また、人知を超えた領域への接近を物語る、壁画という呪術的な表現に関連して、超常的なものや神秘的なものの実在を信じているかと訊くと、全く信じていないし、幽霊も見たことはない。ただ、現地の人たちにとってそういう次元がごく普通のこととしてあるということをよく理解する、という意味のことを石川さんが言っていたのがとても面白かったです。対話を通じて、石川直樹という写真家のタフで冷静な姿勢が浮かび上がりました。

展覧会に併せて、写真集『New Dimension』(赤々舎)が発売されます(個展会場で先行)。この本に、私は「ネガの手の叫びのために」というエッセイを寄稿しました。先にStudio Voiceに書いたのと同じタイトルですが、中身はかなり違ってずっと長いです。英訳をドキュメンタリー映画の監督としても有名なJohn Junkermanさんに担当していただきましたが、彼とのやりとりもこの暑い夏の貴重な記憶になりました。

展覧会は10月2日(火)まで。
写真集の情報は赤々舎のホームページから http://www.akaaka.com/

Monday, September 17, 2007

ICANOFを見よ

例えば、沖縄と八戸を遠隔の飛び地と考えるのではなく、二つの場所が「地峡」のようにあるいは「橋」のようにつながり、地続きであると想定すること。そんな「よそ」を「ここ」へとつなげる想像力をテーマにした企画展、ダンス、映画上映が一度に見られるイベントの一つに参加しに、八戸市美術館を訪れた。企画したのは八戸のICANOFという市民の自発的なアート支援グループ。ICANOF第7企画展「ISMUS=地峡」展と題されたもので、2001年から続いている。

比嘉豊光の写真「島クトゥバで語る戦世」をメインとする美術館の展示に、伊藤二子の力強い抽象絵画と、ICANOFメンバーによるさまざまな写真作品が並ぶ。先週末には比嘉のビデオ版の「島クトゥバ」に加え、高嶺剛の劇映画、仲里効と港千尋のドキュメンタリー映画も上映された。また八戸を拠点に国際的な活躍をつづけるユニークなパフォーミング・アーツのユニット「モレキュラー・シアター」のメンバーによるダンス「イスミアン・ラプソディ」の連続公演も同じ会場で行われた。

9月15日(土)、港千尋監督の映画「チェンバレンの厨子甕」の上映後、港さんと、ICANOFのキュレーターで、モレキュラー・シアターの演出家でもある豊島重之さんと私の三人によるトーク・ショーが行われた。周知のように港さんは今年のヴェネツィア・ビエンナーレ日本館のコミッショナーでもあり、ちょうどイタリアから戻ったばかり。オックスフォード大学付属ビット・リヴァース博物館に陳列されていた、明治期に来日した言語学者チェンバレン旧蔵の厨子瓶を発見するところから、この映画は始まる。厨子瓶とは沖縄で死者の骨を納める容器のこと。「死者の扱い」をめぐるこの映画は、偶然の出会いがひとりでに積み重なってできあがるドラマのようで、とてもうらやましい感じがする。映画でなくてもいいけれど、こういうものをいつか作ってみたいと思わせる。

一つの作品が生まれるためには、他のさまざまな存在に備わっている「連結手」のようなものに絶えず触れていくことで、ようやく「完成」に至る。こんどはその作品がやがて生まれくる別の作品を誘発させる動因となる。そんな「リレー」のことを考えた。

ICANOFのホームページは次の通りです。
http://www.hi-net.ne.jp/icanof/

Thursday, September 6, 2007

第5回ディジタルコンテンツ学研究会のお知らせ

以下のように第5回ディジタルコンテンツ学研究会を開催いたします。

日時 9月22日(土)午前10時から正午まで
場所 秋葉原ダイビル6F 明治大学サテライトキャンパス
ゲスト 吉見俊哉さん(社会学者、東京大学大学院情報学環長)

吉見さんは1957年生まれ。現代日本の代表的社会学者の一人であり、メディア研究、文化研究の最先端をリードしてきました。近年の著書として『カルチュラル・ターン、文化の政治学へ』(人文書院、2003年)、『メディア文化論――メディアを学ぶ人のための15話』(有斐閣、2004年)、『万博幻想――戦後政治の呪縛』(ちくま新書、2005年)、『親米と反米――戦後日本の政治的無意識』(岩波新書、2007年)などがあります。

今回は特に東大情報学環での試みについてお話しいただくとともに、われわれの「ディジタルコンテンツ学」の方向性をめぐって、参加者とのあいだで活発な質疑応答を期待したいと考えています。関連分野に関心のある方は、どなたでもぜひお気軽にご参加ください。

ダイビルは秋葉原駅電気街口前の高層ビル。迷うことはありません。もし守衛さんに訊かれたら行き先を「明治大学サテライトキャンパス」と告げて、直接エレベーターで6階にお越し下さい。
http://www.meiji.ac.jp/akiba_sc/outline/map.html

森山大道論アンソロジー

1960年代から現在に至る、写真家森山大道について書かれた代表的評論を集めた『森山大道とその時代』(青弓社編集部編)が刊行されました。

http://www.seikyusha.co.jp/books/ISBN4-7872-7232-2.html

同書の1990年代の項目に私のかつて書いた二つの批評文、
「最初で最後の街−森山大道『Daido Hysteric No.8 1997 大阪』の方へ」
「犬と人間−森山大道小論」
が再録されました。

この本には興味深い森山論が網羅されていますが、例えば初期の論考として、藤枝晃雄の「世界を等価値に見る」は、いま読んでも鋭い指摘に満ちています。

来年には東京都写真美術館で個展がある予定、それに合わせて、森山大道の写真作品をテーマにした評論を募集しています。美術館のめずらしい取り組みとしても注目されます。

http://www.syabi.com/extra/moriyama.html

Sunday, September 2, 2007

約束の船

昨日、9月1日(土)三軒茶屋のシアタートラムで、黒沢美香+木佐貫邦子ダンス公演「約束の船」を観ました。長く日本のコンテンポラリー・ダンスを牽引してきたといっていい二人の競演は、「50年に一度のデュオダンス」と題される貴重な機会でした。
しかし、実際のダンスの内容については、おそらく二人の動きを見るためのもう一つの外部の目=他者であるコリオグラファーが別にいた方が、個性の全く異なる二人のパフォーマンスがもっと鮮明に際だったような気がします。また逆にそれでは失われるものもあるでしょうから、そのあたりのことがソロやデュオのダンスの場合には特にいつも問題になるのではないかと思いました。

それでも木佐貫の均整のとれた体躯としなやかな動きの中に、生命形態的な要素を取り込む「てふてふ」のシリーズなどを80年代に観ていたことを懐かしく思いだしながら、木佐貫の健在ぶりを久々に目撃したことは嬉しいことでした。
そして何よりも、黒沢美香の自在な動き、だらだらとした一見どうでもよいような所作から日常的に誰もがしている所作まで、さらにはたがのはずれた奇怪な反復的な所作から研ぎ澄まされたいかにもプロのダンスの型までの豊かな表現の拡がりは、いつまでもずっと観ていたいものでした。
黒沢のダンスでいつも驚くべきことの一つは、アクションの何もない静止状態から、何かアクションを起動させるときの、圧倒的な「説得力」にあります。私がパフォーミング・アーツを観る際に気勢がそがれる大きな理由に、静止状態から動きが始まる「きっかけ」を、音楽、言葉、あるいは可視的であるか不可視であるかいずれにせよある種の「物語」にゆだねたりすること、または自身の心理的に説明可能な何かといった「仮構」の存在を頼りにしてしまうことが挙げられます。そこにどうしてもつまづいてしまう。しかし黒沢はいつも、そうした「仮構」の何かを使用するにせよしないにせよ、非アクションとアクションの間をほんとうに自然に行き来しながら、時間の上をサーフィンしたり(時には溺れることさえ愉しみながら)、時間そのものを自分の体のなかでコラージュしたりしてしまうのです。天才的なことだとつくづく思います。

木佐貫邦子と黒沢美香のHPは次の通りです。
http://www.kisanuki.jp/
http://www.k5.dion.ne.jp/~kurosawa/