Tuesday, September 18, 2018

対談「舟と橋、想像力について」横浜市民ギャラリー

9月22日(土)横浜市民ギャラリーで阪田清子さんと対談を行います。阪田さんが参加される新・今日の作家展2018「定点なき視点」の関連イベントです。ぜひお越し下さい!
http://ycag.yafjp.org/our_exhibition/new-artists-today-2018/










Monday, September 17, 2018

ロスコ・チャペルの絵画

沖縄県立芸術大学の集中講義 (9/14-16) で言及した、「ロスコ・チャペル」の絵画についてのエッセーを、参考までに以下に掲示します。

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経験の確率−ロスコ・チャペル・ペインティングを見る
倉石信乃

 特定の絵画について語ることは多くの場合、記憶に基づいている。これから書こうとするのは、何の変哲もないが避けがたいこの条件に向けてということになる。ここでは、ロスコ・チャペル・ペインティングという無宗教の教会祭壇画を取り上げ、絵画とそれを見る経験の場がいささか特殊である場合を考えてみたい。その作品は通常のタブローのように可動的ではなく、持ち運びのできない巡礼型の鑑賞形式を備えている。それはサイト・スペシフィックであるために、作品の内容と経験の形式がより不可分となる。ロスコ・チャペル・ペインティングは、絵画「を」見ることの自明性を捨てて、絵画「において」見ることそれ自体が剥き出しになる局面にわたしたちを連れ出していく。結論を急いて言えば、そのとき絵画は、絵画そのものの誘引力によってわたしたちを引き留めながら同時に、もはや絵画でなくともよいような何かに著しく接近する。
 この場合、わたしの思考を支えるのはしかし、視覚的経験の曖昧さであり、消えかかっている記憶である。それは支えにはなりにくい支え、折れやすい杖に過ぎない。しかしそうした曖昧さや頼りなさこそが、汲みつくしえぬ「見ること」の拡がりと深まりへの「つなぎ手」ではないのか。試しに、なるべく図版の助けに拠らず、朧気な記憶の中のロスコ・チャペル・ペインティングについて語りたいと思う。複製に記憶の中の実物を代理させようとするときに生ずる、ひずみやずれやその他諸々の変質・変形という、一般的な様態にことさら警戒的でありたいわけではない。そうした「差異」は今日ではすでに「制作/享受」の不可避の条件だからだが、マーク・ロスコのそれのような微妙な色面の絵画を複製図版で見る際には、やはり実物と複製のあいだに幾重にも理解のための「変換」作業、あるいは「翻訳」の手続きが必要になってくる。その手続きは夢解釈や精神分析にも接近する。その絵画の色彩を例えば「黒に近い紫」とわたしは書こうとする。だが、「黒」「近い」「紫」それぞれの名辞のもつ、途方もないグラデーションと揺らぎは、そもそも確定的な記述にはおよそ遠く離れたあやふやさ・不正確さを呼び寄せる。
 再び「黒に近い紫」とわたしは書こうとする。確かにこの連作の祭壇画には、青に近い紫と、より赤に近い紫のそれとがある。いずれにせよ色彩を名ざす時におびき寄せる記述の不正確さは、参照している複数の複製図版の色彩がそれぞれ異なってしまうことの、「技術」に由来する収拾のつかなさと呼応している。かくして、色の名前が本性を言い当てるよりもむしろ、理解を促す便宜的・功利主義的なものに過ぎないことを、ロスコの絵画は図らずも教えている。しかしだからといって、当の便宜性や功利性をいたずらに指弾していては、絵画についての議論の根底は覆される。ロスコの絵画は絵画記述におけるこうした自明性の裏側を明かすところまでわたしたちを導くが、とりわけそのことが顕著になるのが、例えばロスコ・チャペル・ペインティングだと思う。
 わたしはヒューストンのロスコ・チャペル・ペインティングをこれまで三度見る経験をした。最初の出会いは1999年の初めことだった。美術館に勤めていたわたしは、企画展「ジョセフ・コーネル/マルセル・デュシャン:共鳴」に貸し出した館の所蔵品を引き取る任務で、ヒューストンのメニル・コレクションを訪れた。ロスコのコンセプトを元にフィリップ・ジョンソンが当初の設計をし、ハワード・バーンストーンとユージン・オーブリーが引き継いで完成させた八角形のプランをもつ小さな教会「ロスコ・チャペル」は、メニル・コレクションに隣接する施設だが、このときはあいにく閉鎖中だった。しかしメニル・コレクションの修復室で偶然の通りすがりに、修復作業中のロスコ・チャペル・ペインティングを数点目撃することになった。「黒に近い紫」の画面が窮屈そうに斜めに立て掛けられていたはずだ。静寂や沈黙や瞑想といった定型的な措辞を呼び寄せるマーク・ロスコの代表作との出会いの場としては、あまりにも散文的であり、似つかわしくなかったかもしれない。
 修復中の絵画というのは奇妙なものだ。それは作品として不完全であるため、その状態で「見る」ことは、十全に絵画を鑑賞したことにならないと判断されるだろう。しかしそれでもなお、作品としての同一性は揺るぎなく保証されていて、来たるべき修復の終了後には、作品として再び自立する、あるいは再稼働する。わたしがメニル・コレクションの修復室で見かけた「もの」は、「時間的に」作品の「手前」にある何ものかであった。したがって、わたしはロスコ・チャペル・ペインティングを構成するメンバーを見かけたが、ロスコ・チャペル・ペインティングそのものを見たわけではなかった。わたしは不完全な部品を見ていたのに近いが、ただ部品というコトバは、限りなく生体的なものに近い質を感じさせるマーク・ロスコの絵画にはふさわしくないと考えられる。まして機械本体を構成する部分のような見なし方は、統合される絵画空間の全体性には似つかわしくないというのが穏当な判断だろう。
 だがしかし部品と乱暴に言ってしまうことによって露わになるものがやはりある。それは、絵画の厳かな存在仕方も、物理的な経年変化や突発的な事故による傷から免れていないばかりか、そのことによって視覚的な外観が鑑賞に堪えられなくなれば、具体的な修復措置を施さなければならない。作品は観念的なあり方を決して許されてはいないことを教えているのだ。
 二度目は2003年春、やはり美術館の学芸員として、改修成ったヒューストン美術館で開催された「日本写真史」展に貸し出した出品作に付き添い、その展示に立ち会うために派遣された折りに見た。オフの一日、ロスコ・チャペルに歩いて出かけた。細かな雨の降る夕暮れで、自然光のみによる採光が充分ではないために、微妙な色彩のニュアンスを識別することは著しく困難であるばかりか、そもそも絵画と壁の躯体との区別すらおぼつかない。教会内部は一様な薄暗さに満たされていた。要するに絵画はほとんど見えなかった。この、「ほとんど見えない」という状況に関心の芽のようなもの、理解の手がかりをわずかに感得したものの、晴れた日に再訪したいといういささか急いた感情が上回った覚えがある。
 翌日、快晴に恵まれて、再びロスコ・チャペルに赴いた。三度目の訪問である。東西と北の三カ所の壁面にトリプティックが置かれ、北西、北東、南東、南(入口)、南西の壁に単一の絵画が置かれる。天井から採光した自然光が、平等に教会内部を満たしながらも平板な印象を与えず、柔らかな暗さというべき質を辺りにもたらしている。やや暗くはあるが、8作品14パネルからなる個々の絵画は、色彩自身の資格において可視的である。いいかえれば作品と色彩の間に間隙がほとんどない、そのように感じられた。このことは、カントが『判断力批判』の中で語っている次の一節に対する、ロスコによる静かな反駁のように思えた。

《絵画、彫刻−それどころか一切の造形芸術においては、従ってまた建築や造園においても、これらのものが芸術である限り、線描的輪郭が本質的なものである。線描的輪郭においては、感覚によって満足を与えるものではなくて形式によって我々に快いものが、趣味判断に対する一切の素質の基礎を成しているのである。輪郭を彩飾する色彩は、感覚的刺戟に属する。色彩は、なるほど対象自体を我々の感覚に対して生きいきしたものにする、しかしこれを観照に値するもの、美しいものにすることはできない。むしろ色彩は、美しい形式が必要とするしころのものを、多くの場合著しく減殺する、また感覚的刺戟が許容されている場合ですら、美しい形式をまって初めて醇化されるのである。》(篠田英雄訳)

 ロスコ・チャペル・ペインティングの「黒に近い紫」、とわたしは乏しい語彙のもとにまたしても綴る。そこには「感覚的刺戟」を入口としながら、途方もない拡張する全体があると思える。実際には不可能にも、その色彩についての措辞に無限のコノテーションや振動が含み込まれているとわたしは言いたいのだった。その「語」は私的な経験の記述に関わってはいても、「私有」から免れているという感じをわたしはもつ。ウィトゲンシュタインは『哲学探究』の中で、色彩語の私的な使用の局面について次のように説明している。

《空を青さを眺め、自分自身に向って「何て青い空なんだろう!」と言ってみよ。−あなたがそれを思わず知らず−哲学的な意図などなく−やっているとき、この色彩印象が自分だけのものであるなどということは、あなたの念頭に浮かんでこない。・・・わたくしの言いたいのは、ひとが<私的言語>について思いをめぐらしているとき、<感覚を名ざす>ということにつきものの、自分自身の内部を指示しているという感じを、あなたはもっていない、ということである》

《わたくしが自分独自のものである(と言いたいのだが)色彩印象のことを考えているときには、その色彩の中へ−おおよそのところ、一つの色を[いくら見ても]〈見飽きない〉かのように−自分自身を沈潜させているのである。このような体験をつくり出すのがいっそう容易になるのは、ひとが何か明るい色を見ていたり、われわれに[深い]印象をのこすような色彩構成を見ているような場合である。》(藤本隆志訳)

おそらくわたしはかつてそれを見たときの間投詞的な感慨と、色彩それ自体への「沈潜」の記憶を込めて、「黒に近い紫」といいたいに違いない。だが色彩語にその役割を負わせるのは困難であり、それを見てすでに知っている読者に類推を促すのにとどまるだろう。しかしそれでもなお、かかる無限の中にいて、その無時間性の中に包摂されている時、わたしたちは色彩の名前を考えているわけでは全くない。色の無限の中にいて色を忘れているのである。この、色を忘れていることがすなわち、絵画を忘れることである。すでに見たように、絵画の中にいることがただちに教会の中にいることだからである。この空間にいてわたしは、絵画=空間を忘れる。線描と色彩の分割が無効化する地点にわたしたちがいざなわれるならば、色彩のもつ「感覚的刺戟」はここでは「入口」ほどの意味しかもたない。
 その経験はまた、忘我のエクスタシーとは全く異なる「落ち着き」の中での出来事なのだ。この落ち着きは、入眠時やまどろみの静けさの類推を許すかもしれないが、あくまで絵画を見るわたしは覚醒しているのだから、それを落ち着きと呼んでみたのだ。広本伸幸の考えによれば、ロスコの絵画は、強烈な光を見つめた後に視野を閉ざして獲得される、まぶたの裏に出現する色彩を模倣することにより、制作された可能性があるという。身体的に感得される残像が微光の色を湛えた絵画を生み出す、こうした色彩の内発的・自己生成的、さらには自己言及的な存在仕方は、ある厳しい、荒涼とした境位を示している。つまり、まぶたの裏のドーム状のスクリーン、もう一つの「天空」に浮かび上がるヴィジョンは、盲目的なものである。少なくともロスコ・チャペル・ペインティングは盲目的な契機を、残像の技術的適用のほか、黒に近い彩色、建築上の採光といった複数のプロセスに組み込むことによって成立している。
 注意を喚起しておきたいのは、この盲目的な契機を絵画制作という「明視への展開」のための技術的条件にのみ転送してはならないということだ。極論すれば、目を閉じて、まぶたの裏の天空に結像する色彩が何色でも構わない。色彩がなくてもいい。そう考えたのはわたしの二度目の教会訪問で見た、あるいはほとんど見えなかった絵画を前にしたときに感じたある「理解の萌芽」と関係がある。自殺した画家が完成した状態を見る機会のなかったロスコ・チャペル・ペインティングは、雨天の夕暮れという、構造上、教会内部が薄暗闇に浸されるときもまた、絵画の時間であることを結果的に示したのだ。それが死せる画家にとっての慰撫や救済となるか否かはほとんど問題ではないが、少なくともわたしたちにとってはその手がかりとなる。それが盲目の契機をもつ以上、絵画的存在の特性を最もよく表しているのは、不可視のときなのかもしれない。そうであるならば、こうしていま書き連ねているあいだ、眼前には存在しないが不可視の記憶の中に立ち現れているロスコ・チャペル・ペインティングは、記述される絵画として「見られて」いる。絵画は時として可視性の境界を踏み越えていくのであり、その沈黙の様態が、もし依然として「美」的な何ものかであるならば、ほとんど不可視のそれをわたしは「美しい」と呼びたいのである。つまり省察において遡行的に見出される美というものがある。それをより確定的に記述するためには将来、雨の夕暮れに、四度目の訪問が果たされなくてならない。
(初出:『文学空間』Vol.5. No.5200812月、7-15)

主な引用・参考文献
・カント『判断力批判』(2巻、篠田英雄訳)岩波文庫、1964
・ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン全集8 哲学探究』(藤本隆志訳)大修館書店、1976
・川村記念美術館ほか編『マーク・ロスコ展図録』東京新聞、1995
・Sheldon Nodelam, The Rothko Chapel Paintings: Origins, Structure, Meaning(Houston: Menil Collection, 1997)








Friday, September 7, 2018

書評 ホンマタカシの換骨奪胎

『新潮』10月号に書評を寄稿しました。

「新しい「自然」へ−ホンマタカシ『ホンマタカシの換骨奪胎』」、『新潮』2018年10月号、276-277頁。

Tuesday, September 4, 2018

写真研究会 第2回研究発表会@早稲田大学

9月12日(水)に早稲田大学で開催される、日本映像学会の写真研究会、第2回研究発表会において、当研究室の孫沛艾君が発表します。テーマは「菅木志雄の「写真」について」です。詳しい内容は以下をご覧下さい。
http://jasias.jp/archives/4244
https://sites.google.com/site/jasiasshaken/home

Saturday, August 18, 2018

『脈』98号 特集 写真家 潮田登久子・島尾伸三

比嘉加津夫さんが沖縄で編集・発行されている文芸誌『脈』に寄稿しました。写真家の潮田登久子・島尾伸三両氏の特集号です。

「常在のVISTA−島尾伸三「生活」を見る/読む」、『脈』98号、84-87頁。

Wednesday, July 25, 2018

昭和の肖像

今週末7月28日(土)14:00から、アーツ前橋でレクチャーを行います。「横浜美術館コレクション 昭和の肖像 写真でたどる「昭和」の人と歴史」展の関連イベントです。詳しくは以下をご参照下さい。前橋写真月間も開催中とのことです。
https://www.artsmaebashi.jp/?p=11170
https://www.facebook.com/maebashiphoto/


Sunday, June 24, 2018

詩集『使い』


久しぶりに自分の本を出すことになりました。初めての詩集です。

『使い』思潮社、2018年。

装幀は須山悠里さんです。
http://www.shichosha.co.jp/newrelease/

Friday, June 15, 2018

2019年度1期入学試験の大学院学生募集要項

2019年度1期入学試験の大学院学生募集要項を公開しました。理工学研究科建築・都市学専攻総合芸術系の要項等は以下をご覧下さい。出願期間は6月25日(月)〜6月29日(金)、試験日は、8月1日(水)です。
http://www.meiji.ac.jp/sst/grad/examination/youkou.html

Thursday, May 31, 2018

Falling Water

ブムンの写真集「Falling Water」にエッセーを寄稿しました。三つの言語(英・韓・日)で掲載されています。

"The Body of Waterfall," Boomoon, Falling Water(Yongin: Kim Art Lab, 2018), 8-10, 62-65.

Friday, April 27, 2018

ファン・ゴッホの風景画には/ツァラは欲望について


ファン・ゴッホの風景画にはオランダ絵画の追憶が残存しているものもあるが、抽象の局面という点では、具象的なイメージの有無を問わず1910年代、20年代の抽象の過程を自ずから、一挙に超越している。この意味でファン・ゴッホの芸術は、デ・クーニングよりもはるかに重要な芸術である。「場の絵画」と間接的な連関を有しているし、その孤独から救い出されなければならない。(フィンセント・ファン・ゴッホ「葡萄園とオーヴェールの眺め」)

ツァラは欲望についてしばしば語るが、原始あるいは未開や素人の芸術はそれとかかわっている。ピカソの芸術はそうしたものだが、それはたとえピカソが黒人彫刻の影響を受けたことが明白であってもただ単に原始主義の形態学に帰されるべきではない。原始主義が、芸術の領域ではアカデミズムとポップ主義とマネー・カルチュアの痴呆的な芸術のなかで衰弱していくのを、マチスをも高く評価したツァラはどう見るのだろうか。原始、未開、素人の作物は、審美的な芸術の枠にはめられて「原初の有用性」や「芸術の固有性」とはなんの関係もなく、芸術を了解できないことの隠れ蓑として黴の生えた芸術的人道主義の慰み物となる。いうまでもなく、これは生まれながらのポストモダニズムの一部である。
 ダダは潜在することで有効性を発揮し、そうすることで自家撞着をまぬがれる。(「トリスタン・ツァラのダダ」)
                           —藤枝晃雄『絵画論の現在』

Saturday, April 7, 2018

池袋学 2017年度講演録

昨秋、池袋の東京芸術劇場で行なわれた森山大道さんの講演に聞き手として参加しましたが、その模様も収録された、2017年度の連続講座「池袋学」の講演録が刊行されました。

森山大道・倉石信乃(聞き手)「都市の体温—池袋の想像力」、小林俊史ほか編『「池袋学」2017年度講演録』「池袋学」事務局、2018年、47-63頁。


Tuesday, March 27, 2018

背景をなくすことで立ち現れる「写真の自然」

写真家安村崇さんとの対談がウェブ版IMAに掲載されました。写真集『1/1』の刊行を記念した企画です。

安村崇・倉石信乃(対談)「背景をなくすことで立ち現れる「写真の自然」」、『IMA』2018年3月22日付掲載。

Sunday, March 25, 2018

明治大学〈総合芸術系〉創設記念論集

2017年度に新たな大学院プログラムとして改組・発足した明治大学理工学研究科建築・都市学専攻総合芸術系の創設記念論集が刊行されました。編集は同系の管啓次郎さん、デザインは管研究室の谷口岳さん。ゲスト執筆者は掲載順に、松田法子、小沼純一、田中功起、暁方ミセイ、いいだかずお、石倉敏明、川瀬慈、木村友祐、久保田沙那、小林昌廣、佐々木愛、佐藤亜沙美、下道基行、ダグ・スレイメーカー、塚田美紀、手塚美和子、仲野麻紀、林立騎、分藤大翼、松田美緒、毛利悠子、亀海史明、中村絵美の各氏で、スタートを飾るにふさわしい充実した内容になりました。教員・院生では私を含め、清岡智比古、波戸岡景太、鞍田崇、中島晋作、谷口岳、管啓次郎、笠間悠貴が寄稿しています。「場所、芸術、意識」すなわちPlaces, Arts, and Consciousness (略称PAC)は、この大学院プログラムの別名または英文名として採用したものです。以下は私の寄稿した小文です。

「場所、芸術、意識のために—砂澤ビッキ《四つの風》から」、管啓次郎編『場所、芸術、意識 明治大学〈総合芸術系〉創設記念論集』明治大学大学院理工学研究科建築・都市学専攻総合芸術系、2018年、2-3頁。

Monday, March 19, 2018

2017年度第1回写真研究会

日本映像学会内に最近設けられた写真研究会に、運営メンバーとして参加しています。神戸大学の前川修さんが代表を務めておられます。このたび20日(火)午後2時より、同志社女子大学今出川キャンパスで今年度の第1回写真研究会が開催される運びとなりました。当研究室の笠間悠貴君が発表者の一人として参加します。
http://jasias.jp/archives/4088

Saturday, March 17, 2018

露口啓二「地名」

露口啓二さんの写真集「地名」が刊行されました。1999年〜2004年に撮影され、2015年以降に再開された彼の代表作で、時間をおいて撮影された2枚の北海道の風景写真がつなぎ合わされています。そこに地名のアイヌ語と日本語のキャプションが併記される作品です。写真集に寄稿しました。北海道はもとより、歴史とともにある風景を思考する上で、ひとつのスタンダードとなる写真だと改めて思いました。

「誤訳の領土—露口啓二「地名」」、露口啓二『地名』赤々舎、2018年、n.p.【英訳: "Dominated by Mistranslations: Keiji Tsuyuguchi's Place Names", Keiji Tsuyuguchi, Place Names(Kyoto: Akaaka Art Publishing, 2018). n.p.】




Sunday, March 11, 2018

中平卓馬「氾濫」

中平卓馬の1974年の写真インスタレーション作品「氾濫」が写真集になりました。48点のカラー写真から構成される本作品は、1970年代前半における中平作品のひとつの集大成ともいえます。中平研究の第一人者で、プリンストン大学のフランツ・プリチャード氏による寄稿論文を翻訳しました。

フランツ・K・プリチャード「都市氾濫の図鑑—中平卓馬の写真的思考と実践」拙訳、中平卓馬写真・澤田陽子編『氾濫』Case Publishing、2018年、n.p.。

この作品を再現展示する試みが渋谷のギャラリーCASE TOKYOで始まりました。本展に関連して、3月24日(土)17:00〜18:30には、近畿大学教授の八角聡仁氏と対談を行います。ぜひお立ち寄り下さい。出版と展覧会の詳細は以下のとおりです。

Tuesday, March 6, 2018

バンカートスクール

バンカートスクールの2月—3月期の講座「写真について」のうち、今月2回(3/14、3/21)を担当します。会場は来月で閉じるという、思い出深いBankART NYKです。横浜ということもあり、中平卓馬の写真を中心にお話ししたいと思います。講座の詳細は以下をご覧下さい。
http://www.bankart1929.com/school/pdf/2018_02_03.pdf

Thursday, February 22, 2018

長万部写真道場 再考

2月25日(日)10:00〜14:15、フォーラム「長万部写真道場再考—北海道における写真記録のこれから」(長万部町学習文化センター 文化ホール)に参加します。地元・長万部出身のアーティスト、中村絵美さんを中心に企画された企画展に関連するイベントです。中村さん、青森県立美術館学芸主幹の高橋しげみさんと登壇し、私は掛川源一郎『大地に生きる—北海道の沖縄村』について話す予定です。詳しくは以下をご覧下さい。

http://www.remanbe.jp/?p=2001

Saturday, February 17, 2018

シンポジウム「映画以内、映画以後、映画辺境」

映画監督の七里圭さんを首謀者とする途方もない連続シンポジウムの最終段階の集いに参加することになりました。日曜日、午後6時、渋谷・アップリンクで。詳細は以下をご覧下さい。
http://www.uplink.co.jp/event/2018/50089

Wednesday, January 17, 2018

人類館写真を読む

1月21日(日)新宿のフォトグラファーズ・ギャラリーで「人類館写真を読む」と題したトーク・イベントがあり、北島敬三さん、小原真史さんと参加します。私は後半の討議部分で加わる予定です。稀少な資料もふんだんに見ることができる機会となりますので、関心のある方はぜひご参加下さい。このイベントは北島敬三WORKSHOP写真塾」の公開講座の第2回目の企画です。
https://pg-web.net/documents/lecture/workshop-201801/

Monday, January 15, 2018

修了制作展とワークショップ

本日から、当研究室の大学院生、寺畑保雄君(写真)と中原健仁君(映画)の修了制作展がそれぞれ表参道画廊とMUSEE Fで開催されます。会期中には、20日(土)に社会学者の渡邊太さん、26日(金)に写真家の北島敬三さんをそれぞれゲストにお招きして、イベントも行われます。詳しくは以下をご参照いただければ幸いです。ぜひお立ち寄り下さい!
http://www.meiji.ac.jp/sst/grad/information/6t5h7p00000q5uow.html