Sunday, April 17, 2011

存在に対するあやまたない知覚

「今日ではわれわれは、映像が意味をもつとしたら、論弁的な追求の量ができるだけ多い方がいいということを知っている。しかもそれがつきるところでもういちど裸の眼で対象とむきあうことができれば、うまれてくるものが映像であろう。それが存在に対するあやまたない知覚である。」(多木浩二「東松照明論」1966年)