Friday, October 8, 2010
『スナップショット』書評、英語教育
雑誌『英語教育』2010年10月号(大修館書店刊、96頁)に写真家の金村修さんによる拙著『スナップショット—写真の輝き』の書評が掲載されました。以下がその全文です。
写真は人間なんか写さない。
「見知らぬ他者との瞬時の出会い」(P.267)は、「見知らぬ他者」を瞬時に石にする。その石を宝石のような特別な石にするのではなく、どこにでもあるような路傍の石にかえる。石はどの石とも区別もつけられない。そして、いつまでも同じ形でその形態が変わることはない。石の上に、カメラは、チョークで殴り書きするように写真を撮る。それは碑文になるのかもしれないし、いつか誰にも見られないまま消えていく戯言かもしれない。「「チョークで書かれた碑文」というべき、矛盾したブレヒト的詩語」(P.202)石の上にチョークで殴り書きされたように書かれた写真は、露光不足、定着不足でいつかピンボケのような状態になってニエプスの写真のように不鮮明な染みになる。退色して空気に触れさせないようにして、集中治療室のような無残なニエプスの写真。集中治療室の無残さが写真であり、酸素ボンベをつけたままベッドの染みになることが写真なのだ。何度も反復展示されることで、ニエプスの写真は、何か決定的なことを写したものというよりも、染みや埃のようであり、それはまるでバージニア・ウルフの「壁の染み」の中の「不透明な色のバラの花の形の染み」や「トロイを三度埋められるほどの埃」、「壁の染みは穴などではない」。染みは穴という深さをもった遠近的存在ではなく、遠近法を放棄された染み。一体その染みが何だったのか誰も認識できない。 “かつてそこにあった”という存在の記憶は放棄され、何があったのか思い出せない染みの写真は、記憶との関連を失った染みや埃であり、それはもう痕跡にもならない。写真は記憶を抹消する。写真はロラン・バルトの「明るい部屋」に敵対する。記憶を抹消するために写真は撮られる。「人間も、その痕跡も、そのイメージさえも、完全に消滅させることがナチスの「奥義」」(P.91)なら、写真の「奥義」は被写体を染みや埃に、不透明で汚い白や黒に塗りつぶす。
(写真家 金村修)
金村さんと編集部のご厚意により、転載させていただきました。ちなみに『英語教育』の巻頭グラビアには、わが同僚の波戸岡景太さんのエッセイと写真「Everybody Loves Nevada: トウェイン以後のアメリカ西部をもとめて」が連載中。とても面白いです。