Wednesday, January 22, 2025

怒りを、未来に向けての私を問う激しさを

 ひとつのフレームが、シャッターに置かれた指のわずかな動きが、一瞬の時―世界を凝視し固定(凝結)する、そしてそこに、ゆるぎない世界を、完璧な世界を出現させる。しかし世界はゆるぎないものなのか、それほどに整ったものなのか、心はゆるぎないものなのか、確信に満ちたものなのか、いやそうではない。世界は安定などせず、いくつもの対立さえする層をもった複合的な、相反する価値と判断の結合を含んだやわらかな不定の存在なのだ、そして心もまた、あまりに曖昧なとりとめのないものではないか。あるいは展覧会の後半は、その甘美な写真の魅力の虜となることへの拒否という思いがあったのではないだろうか。世界の、複合的な構造には複合的な視線(視点)を、組み合わせていく。いくつもの異なった断片(イマージュ)を寄せ集め重ねていく、いくつもの異なった手法と技術を重ねていく、写真の配列を変え、ことばやスクラッチといった異物を加え、時間を混乱させ、放り出す。この展覧の後半の作品たちは、あまりに前半と趣を異にしている。そして、現在という時点での重要度は、あきらかに後半の作品群にあるだろう。

 ……すでに、過去ではなく問題は現在であり、これからの明日の時間なのである。ひとつの視点から世界を統合的に語りうるものとして、ロマンチックにさえ語りうるというところから、いくつもの視点の間でさまようこと、多次元的な時間の導入、統合されていく時間と空間、重ね合わされ、対立を作り出され、隠され、そして傷つけられ、消えるにまかされていく映像たち、みることにおいて、観賞という受動的な立場は奪われ、観客はそこ(イマージュ)に溺れることを拒否されていく。込められるメッセージは、ふたたび攻撃的なものとなり、世界の不条理に向けての絶え間ざる抗議、怒りを、未来に向けての私を問う激しさを蘇らせてくる。ふたたび、みたび、私を問うことがはじまり、過去が美しさに彩られていくことへの怒りと悲しみが、そこには溢れている。

谷口雅「ロバート・フランク――ムーヴィング・アウト」展評・抄、1995年