言語に代わる等価物が唯一あるとすれば、症例シュレーバーを襲った幻聴という「聴覚映像」以外にはない。むろん映像というタームに惑わされないことだ。言語を有しない種や無機物にもすんでのところで「ない」とはいえない聴覚映像。それを無意識と呼ぶことはできない。無意識とは「抑圧されたものの回帰」であって、どうかした拍子に回帰するとされるのは、それがかつて抑圧された残渣だからである。聴覚映像とは抑圧でも回帰でも、非選択の強度でもない。では何なのか。フロイトに準ずるなら「前意識」に限りなく近いものだろう。それは言語=意識の足下にある裂隙の換喩(metonymy)であり、沈殿しきることのない上澄み/エスキス(esquisse)のごときものだ。前意識は単に意識と無意識を架橋する心的装置内の動的な中間過程を意味しない。むしろそれは言語の根源的な原基であって、健常・病的を問わず、たえず現存を脅かす「死の欲動」の換喩でもあるのだが、ここでも「死」の一語を過剰評価してはなるまい。それは「生の欲動」を凌駕する生命論的に開かれた〈未成の自己完結力〉であり、いわば裂け目それ自体ともいえるからである。帰巣本能さながら心的世界の源流へと、本来の生地=死地たる無機物世界へ巡航する「死の欲動」を、もはや古典力学上のメカニックなものということはできない。
豊島重之「フロイト、または、症例としての未来」(2012年)