Friday, April 27, 2018

ファン・ゴッホの風景画には/ツァラは欲望について


ファン・ゴッホの風景画にはオランダ絵画の追憶が残存しているものもあるが、抽象の局面という点では、具象的なイメージの有無を問わず1910年代、20年代の抽象の過程を自ずから、一挙に超越している。この意味でファン・ゴッホの芸術は、デ・クーニングよりもはるかに重要な芸術である。「場の絵画」と間接的な連関を有しているし、その孤独から救い出されなければならない。(フィンセント・ファン・ゴッホ「葡萄園とオーヴェールの眺め」)

ツァラは欲望についてしばしば語るが、原始あるいは未開や素人の芸術はそれとかかわっている。ピカソの芸術はそうしたものだが、それはたとえピカソが黒人彫刻の影響を受けたことが明白であってもただ単に原始主義の形態学に帰されるべきではない。原始主義が、芸術の領域ではアカデミズムとポップ主義とマネー・カルチュアの痴呆的な芸術のなかで衰弱していくのを、マチスをも高く評価したツァラはどう見るのだろうか。原始、未開、素人の作物は、審美的な芸術の枠にはめられて「原初の有用性」や「芸術の固有性」とはなんの関係もなく、芸術を了解できないことの隠れ蓑として黴の生えた芸術的人道主義の慰み物となる。いうまでもなく、これは生まれながらのポストモダニズムの一部である。
 ダダは潜在することで有効性を発揮し、そうすることで自家撞着をまぬがれる。(「トリスタン・ツァラのダダ」)
                           —藤枝晃雄『絵画論の現在』