一昨日(10月1日)行われた横浜市民ギャラリーでの笹岡啓子さん、小原真史さんとの鼎談の中で私から話柄にした拙稿を掲示します。
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不透明について
いつの日にか、私よりも若いあなたが齢を重ね、思うように足も立たず目も見えず耳も聞こえなくなる、誰もが遅かれ早かれ経験するはずのそんな未来の一日、今のあなたには実感が伴わないだろう老いた未来のふだんの動かない日、あなたは写真のことを遠い逸話の一つとしてふと思い出すかもしれない。
その頃にはきっと、写真を仕事にして生活をしている人間がいることも、私の生きてきた時代よりもっと、あっさりと忘れられているかもしれない。
いやそうではなく逆に、未来に写真は依然として親しまれており、キーを押して言葉を書き伝えるのとほとんど変わることがなくなった指先の一押しで、今以上に簡単にシャッター・ボタンを押し、いや押さなくても目の筋肉の働きだけで、それさえも要らず、好ましい写真を撮り伝えるようになっているのかもしれず、しかもその技術にはやはり巧拙は残り、その残滓の分だけ写真の仕事も残され、過去の写真の記憶も頻繁にアーカイヴされると同時に、検索も再生も格段に容易になっているかもしれない。
無為な予想を連ねて感じるのだが、どちらの未来にも、シリアスな写真の命脈は、もはや保ちがたいように思えてくる。かつて印画紙という言葉に含まれていた「紙」の部分が現実味を喪って、写真一般に紙の重さがなくなって久しい、その分だけ写真はほとんど気散じと暇つぶしのために使い易くなる。写真の未来は液晶の未来と呼ばれもしたのだが、その名を冠した展観もすでに20年も前のことであった。
今日の写真の表現に、それがシリアスであればあるほど、「不透明さ」が増している。それを透明なものに変えようという詐術も強まっている。そのことを、決して少なくない数の写真・写真家を育成する場であり続けたコニカミノルタプラザが活動を終えるに当たって、書き置きたいと思う。不透明というのは、分かりにくさとか咀嚼しがたさと言い換えてもよいし、無視されやすさともつながっている。かつて写真の良し悪しというのは透明であることの精度を問うていた。さもなければ、逆に故意に不透明な皮膜を人為的に施す技術の洗練を問うていた。いずれもいささか「不真面目」であったのかもしれない。ここでシリアスというのは、かつてなら写真自体という領土の保持を意思することに関わっていた。同時に写真とともにある言葉の独立性を保持する営為にも関わっている。写真をどこにも譲り渡さないこと。大恐慌後、アメリカ・ディープサウスの疲弊した小作農の暮らしに取材して成った、ウォーカー・エヴァンズとの共著『今こそ有名な人々を讃えよう』(1941年)の序文において、作家ジェイムズ・エイジーは自分たちの本について次のように述べていた。
家でも、エンターテイナーでも、人道主義者でも、司祭でも、アーティストでもない
立場で、だがシリアスなやり方でテーマに取り組もうとしているからなのだ*。
かかる複雑さを単純化しようとする、最近の「アート」にはびこるものは、饒舌で攻撃的な言葉とビデオ、つるつるとした円滑な言葉とドローイング、朴訥な言葉とアニメーション、粗暴で短慮からなる言葉とキュリオ、そのような組み合わせである。要するに「言葉+」で成り立っているのだ。写真をミディアムに据えるものも無縁ではない。新人から巨匠と目される存在の作品まで、あまねく大小の物語の復権は確実に起こっており、いくつかの話法に依拠した言葉が画像や事物を巧みに引率しながら、なんら恥じることがない。かくして成立するのはただ、透明な意味の乗物としてのアートであり、それを支える「乗り」の支配する環境・解釈共同体なのである。
その傍らで写真はじっと己の不透明さに堪えている。そのまま写真を提示することさえ、ただちに不透明な隔たりを見る者に誘発するかのようだ。写真そのものはいつの時代にもあまりに素っ気ない。だが言葉を容易に寄せ付けない写真の素っ気ない相貌/身体だけに、私はむしろ写真の希望を見いだしている。写真という場所は、世界と歴史の不透明な厚みに触れる回路の起点たりうるはずだ。もちろん、写真自体の不透明な広がりを沃野と呼ぶことはできず、実際あまりにも甲斐なき荒野なのだが、それでも探究する価値がある。もっと分かりにくくあれ。観者をもっと高く見積もり、誇り高き難解さを貫いてあれ。それを簡明な身振りで達成しなければならない。写真を透明にする誘惑がずっと続いていくなら、いまこそ写真をもって言葉を断ち切れ。
* James Agee and Walker Evans, Let Us Now Praise Famous Men, with an Introduction to the New
Edition by John Hersey(Boston: Houghton Mifflin Company, 1988), xlvii.